〔読書ノート〕『モモ』ミヒャエル・エンデ

〔あらすじ〕
ある日のこと、今は廃墟となったかつての円形劇場に、身なりのみすぼらしい少女モモが住みついた。
この不思議な少女に、近隣の貧しい人々は次々と救いの手を差し伸べ、廃墟の片隅を彼女の住居に改装し、食べ物を分け与えた。
モモには人より長けた能力があった。それはただひとつ、人の話をじっくり聞くことのできることだった。魔法や呪文が使えるわけでもなく、たくさんの食糧を手に入れる訳でもない、ただただモモは、たとえそれが何時間に渡ろうとも、人の話にじっくり耳を傾け続けた。
時が経つにつれて、モモの存在は、人々にとってなくてはならないものとなっていく。なぜならば、人々は、モモと話をすることによって明確な意志や勇気、希望を持ち、対立する友人と和解することさえも出来たからである。モモのしたことは、ただただ相手の話にじっくりと耳を傾けるだけであったが、それによってモモは人々に安らぎをもたらしたのだ。
やがて、モモと近所の友人との楽しい日々を脅かす、怪しげな連中の影が忍び寄る。灰色の服を着たその連中は、よりよい暮らしというものを漠然と思い浮かべている人々の前に現れては、人々が日頃いかに時間を無駄にしているかを膨大な数字を使って説明し、時間を節約して時間貯蓄銀行に預けるように勧める。時間を効率的に使って倹約すれば、将来必ずより豊かな暮らしができるという誘いに、多くの人が思わず納得してしまう。
しかし人々は、時間を節約するために常にあくせく働かなければならなくなり、仕事に対する誇りや充実感を失っていく。また、家族や友人と過ごす時間もなくなり、人間関係までもがぎくしゃくし始める。人々の顔から精気が失われ、まるで人が時間に飼われているようになった。これでいいのかと悩みながらも、人々は、時代は変わったのだと言って時間の節約をやめることができない。時間とは生活であり、時間を節約すればするほど生活はやせ細り、生活の豊かさを逆に奪っていったのだ。
友人たちからの訪問がめっきり無くなったモモは、自分の方から友人たちを訪ね歩くことにした。
じっくり話を聞くことで、過ごした時間の経験そのものを豊かにする力のあるモモを邪魔な存在だとみなす灰色の男たちは、あの手この手を使ってモモの行動を妨害し、やがて友人から完全に孤立させてしまう。
友人たちを救おうと決意したモモは、カメのカシオペイヤに連れられ、時間を司るマイスター・ホラを訪ねるために、「時間の国」へと向かう。そこでモモは時間の源となるものを見て時間の性質を理解し、灰色の男たちの正体も見破ってしまう。
その後、友人たちの世界へ戻ったモモは、灰色の男たちを全て退治した。すると、人々の「時間の花」が戻り、人々は時間に操られることなく、豊かな時間を過ごすようになった。

〔コメント〕
ミヒャエル・エンデを知ったのは、文学部に通っていた時だった。当時の友人のひとりがドイツ文学専攻で、エンデの著書の独語原訳版を持っていたのだ。当時のドイツ文学研究の花形はヘッセやカフカだった中、彼はエンデが好きで、私にもエンデの良さを繰り返し語ってくれた。エンデは児童文学家としては大家として数えられていたものの、必ずしも思想家として見做されていた訳ではない。ただ今回紹介する『モモ』にも、彼の哲学が随所に散見される。
『モモ』の中に見られる彼の哲学は、時間についての考え方である。
灰色の男たちが登場する前に以下のような一節がある。

 

とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、それをいっこうにふしぎと思わないのです。この秘密とは――――それは時間です。
(ミヒャエル・エンデ『エンデ』p.83、岩波少年文庫)

 

エンデは続けて以下のごとく述べる。

 

時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか1時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。なぜなら時間とは、生きていること、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
(『同前』p.83)

 

太字部分から明らかなように、エンデは、時計や数で示される外在的で客観的な時間概念を峻拒し、時間を「生」や「心」に関わる主観的なものとして捉え直す。また一方で傍線部から読み取れる通り、時間を超越的な存在としても見做している。これらは、時間についてのエンデの哲学がよく現れている部分であり、彼の現代社会への批判的な洞察部分である。
現代社会では、とかく数量化や効率化に拘りがちである。とにかく効率を求め数量化し、毎日毎週毎月、人々は目標と予定に追われている。エンデはあまりに時間を数量化し過ぎることに警鐘を鳴らし、また、時間銀行というタームを用いたのは、言うまでもなく時間を「金」とかけたアナロジーだろう。時間も金も、数えれば数えるほど、追えば追うほど逃げていくものだ。エンデは、豊かな時間とは何か、という人生において大事な問いかけを、物語を通じて現代世相に投げかけているのだ。
また、時間の超越的次元を表している記述では、花や振り子、池や光など、彼の豊かな想像力が巧みに発揮され、時間の根源を見事に表現している。そして、その時間の源は、人々に個別に働くのみならず、それぞれの人に同時に共鳴し、共同性をもたらすのだという。現代社会において価値判断が多様であるのと同時に、幸福のあり方も同様に多様である。ただ、ここでも物質的なものや数量化されたものが人生の幸福や目的になってしまう人も多いのではないだろうか。たまには物質や数量などから離れ、抽象的なイメージや心の琴線に触れるものに思いを巡らすのも、たまには悪くないかもしれない。

 

最後に、2015年発行「ユリイカ」でのエンデ特集号の一節を引きたい。当時大学院生だった私の心に強く残った一節である。

 

「 『ユリイカ』誌再度の特集にあたって私が伝えたいのは、エンデがしばしば次世代に託していた願いである。三〇年前の初対面で交わした対談『エンデと語る』の中で彼が「超自然の徳」として出した信・愛・希望の三つ──これは、状況のすべてがいかにネガティブに不信と憎しみと絶望とを孕んでいようとも、人間は「にもかかわらず」の徳を生きなければならない、という自然な因果を超えた徳なのである。現今の世界の諸現象の中でそんな徳など唱えるのか、とせせら笑う声も聞こえることを覚悟して、私はエンデを代弁したい。それでもやっぱり「にもかかわらず」なのだ、と。」

 

—『ユリイカ 2015年12月号 特集=ミヒャエル・エンデ -『ジム・ボタン』『モモ』『はてしない物語』『鏡の中の鏡』…没後二〇年-』子安 美知子, 小林 エリカ, 等著