極楽寺ロゴ

開基から明治期まで

極楽寺の寺族は代々、麻生姓を名乗っています。
その由来は、鎌倉幕府の創設を支え、筑前国遠賀郡の地頭となった僧侶「一品房昌寛」と伝えられ、その子孫が現在の八幡西区花尾山を根拠地とし、花尾山が「麻生山」とも称したことから始まるようです。
当山の過去帳は、萬治元年(1658 年)正月14日の日付分から現存し、開基住職、道了によって寛正元年(1460 年)草創されたと伝えられます。草創当時は天台宗で寺号を「妙楽寺」と称し、旧若松市立病院の西、正保寺町にありましたが、程なくして出家や貴族のための仏教だった天台宗を離れ、在家・民衆の暮らしに溶け込んでいた浄土真宗に改宗。第四世・了順が再興して現在の地に移し、寛文2年(1662年)12月13日、ご本山である本願寺第14 代寂如宗主の裏書きがある阿弥陀如来画像を賜りました。
こうして寺号を「極楽寺」と改め、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する寺院となったのです。地元の人々から「修多羅村の極楽寺」と親しまれてきた当山は、草創以来560年、浄土真宗の寺院となっては350 年にわたり、学問や教育の中心的役割を果たしながら、今もこの若松の地に、法灯を絶やさず灯し続けています。

石炭勃興期から太平洋戦争まで

かつて石炭の積出港として繁栄を謳歌していた若松は、
経済のみならず文化的にも先進性にあふれ、各界の識者も多数極楽寺を訪れました。

1915

大正4年(1915年)庫裡上棟式

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大正4年(1915年)庫裡上棟式
九条武子様婦人会奨励のため極楽寺にご来臨

大正4年(1915年)8月30日には庫裡上棟式が華々しく行われ、1ヶ月後の9 月30 日には佛教婦人会本部長 九条武子様がご来臨。新築した庫裡にお迎えしました。また、大正6年(1917年)6月、歌人の与謝野晶子は夫の寛(鉄幹)と旧若松市に立ち寄り、ここ極楽寺で講演会を行います。当時の門司新報によると、本堂に大勢の女学校生徒や一般市民が詰めかけるなか、15日午後2時と午後7時の2回にわたり講演が行われ、婦人問題や愛、文明論など、若松の人々に時代の風を伝えました。

1929

昭和4年(1929年)本堂地搗

1931

昭和6年(1931)本堂落成記念
極楽寺日曜学校大会

現在の極楽寺本堂は、第17世・釈了暁の発願で昭和4 年(1929年)8月23日に起工。門信徒一丸となっての協力が結晶し、翌年9月に竣工しました。過去帳によると、昭和4年(1929年)4月18,19日の「地搗き(じつき)」には、加勢人がのべ2,600名、昼食握飯二石、酒三挺、「赤と黄の手拭いを与え、前代未聞の大盛況也」と記されており、極楽寺本堂の建設は門信徒の枠を超え、若松地区全体の一大事業であったことが伺えます。
昭和6年4月25日から29 日にかけては、本願寺勧学・雲山龍珠和上をお迎えして盛大な落成入仏慶讃法要を厳修。紫宸殿(ししんでん)造りの大伽藍は、全国でも稀な昭和の本格寺院建築として、今もその偉容を誇っています。

1930

昭和5年(1930年)建設当時の極楽寺の本堂

戦後から現在まで

第18世住職・釈了宣は、親鸞聖人700周年大遠忌法要や極楽寺開基500年法要のほか、記念事業として現在の門信徒会館の建設などを手がけましたが、昭和55年(1980年)12月20日、55歳にして往生しました。当時のご本堂の屋根瓦は倒壊寸前で、雨漏りは尋常ならざるものがあり、大きな思いを残しての往生でした。

1983

昭和58年(1983年)
本堂山門修復落成慶讃・第19 世住職継職法要

2012

現在の極楽寺

翌昭和56年(1981年)には、現住職、第19世・釈了司が継職。本堂・山門屋根瓦の修復工事や、痛んだ内陣仏具の一部修復を果たし、昭和58年(1983 年)5 月には本願寺様前ご門主様をお迎えして、住職継職と併せ落成慶讃法要を行いました。
そして平成13年(2001年)、内陣荘厳工事が竣工し、この度の大法要の記念事業として、新たなご本尊をお迎えすることとなりました。建設着工から82 年の星霜を経て、極楽寺本堂は完成の時を迎えます。

又、近年では変容する時代の流れに伴い、子供たちの安全と健康に最大限配慮した精華幼稚園を移転新築、そして、いつでもお参りができる永代使用も可能な第二納骨堂も新設しました。

激動の時代を生き抜き、言葉に尽くせぬ幾多の困難を超えて、今茲(ここ)に、新たな光が生まれるのです。